今から378年前の1629年、徳川幕府の関東郡代・伊奈忠治は荒川の大改造をなしとげました。熊谷の久下の元荒川を切り離し、そこに新しい川道を開削し、南を流れる和田吉野川さらに入間川と結び今の荒川とする作戦でした。この計画は父・伊奈忠次が計画しました。

 徳川家康が関東の拠点を江戸と定めてから、雨が降り続くと一面沼地となり荒れ果てた寒村であった武蔵野の国の大改造を任せられたのが伊奈忠次でした。伊奈忠次は先ず荒川周辺の検地を行い、大麻生ちかくに奈良・成田・玉井などの用水を引くための六堰を作りました。その後の仕事を引き継いだ次男伊奈忠治が久下地区で荒川の付け替え工事を行いました。財政は忍藩が担当し、不足分は伊奈氏が補いました。労働は近在の農民たちが駆り出されましたが、伊奈氏は常に農民の意見に耳を傾けその工事は数年を要したといいます。河川を制するものは国を治めるものの言葉どおりに関東の大河川を改造することで、江戸周辺は豊かな田園地帯に生まれ変わりました。

 荒川久下地区に新しい川ができると、その前そこに暮らしていた人々は河原沿いに移転して、ここに新しい村が生まれました。その村を下久下村と江川村といい、明治になって合併し新川村と呼ばれるようになりました。

 新しい荒川に江戸と北武蔵を結ぶ舟運が起こり、新川河岸はその基点として、明治16年鉄道開通までの250年間栄えることになるのです。木材は筏舟にして、忍藩の米は御用船で14日ほどかけて江戸に運び、江戸からは塩や油や肥料などをはこびました。新川村には廻船問屋が数件大きな商いをして、地域の暮らしを支えたといいます。


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