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No. 話題 No. 話題
1
新川で繭集め 上州屋
2
新川で砂利をとる機械船
3
蚕種屋の大島勘八の娘とお隣さん
4
栄華を語る元屋敷の石垣
5
その名もずばり「新川屋」
6
400坪の庭で、浪花節や映画会も…
7
30年間新川に暮らした田口さん
8
今も水瓶は家宝
9
土砂に埋もれた祭神を掘り返したことも…
10
人力車で往診
11
法印ンチ
12
"大水"にまつわる伝説と信仰
13
押し入り強盗てん末記
14
繁栄を極めた「新川河岸」
15
洪水 耐えつづけた300年
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養蚕王国
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おかいこ繁盛記
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荒川でも鵜づかい
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小舟にのって御用聞き



@ 新川で繭集め 上州屋 (宮町) 原島典夫さん

 新川での養蚕の話になると決まって名前が出る紺屋の上州屋。今も市役所近くに店を構える上州屋さんである。明治30年創業、「家は代々女性が外交に頑張った」と4代目原島典夫さん(65才)。草鞋姿で篭を背負い部落を回り歩いたのは初代の妻・せいさん。新川を持ち場としてクズ繭を集め、糸を取り機屋に出して反物とし、今度はそれぞれ注文を受けて染上げた。二代目の妻かめさんはモーター付自転車、幾つも白い袋をくくりつけて何往復もした。「いるかね、上州屋が来たよ〜」の美声が語り草。娘がいる家は繭をたくさんとり、七五三、入学式、嫁入り…「お宅とは縁が切れないね」と言われたものだった。

タウンタウン熊谷143号「幻の村新川を訪ねて番外篇」より



A 昭和初期の新川で砂利をとる機械船 小杉富士さん

 昔は新川一帯の荒川は水を満々とたたえた川だった。風をいっぱいにはらんだ帆かけ船が川を往来した。その光景を記憶する人ももうほとんどいない。江戸時代からさかえた舟運は明治16年の高崎線の開通で一気にさびれてしまった。上流にダムができ水流が調整されるようになると川の水は極端に少なくなった。昭和の初め頃は砂利を引き上げる機械船が活躍した。新川の砂利は優れ珍重されたという。久下の新井組がその作業を行い、新川の特に下分の人達もその機械船で働く人も多かった。

タウンタウン熊谷143号「幻の村新川を訪ねて番外篇」より



B 蚕種屋の大島勘八の娘・富士さんとその隣の小寺かくさん、ともに小杉家に嫁いで親戚に。

 富士さん、カクサンともに新川上分のはずれ、鵜づかいの長島さんの家の近くにその実家があった。富士さんの実家は種屋んちの大島勘八さん宅。かくさんは小寺儀衛門さんの娘だった。富士さんの父・大島勘八さんは日露戦争から喉を負傷してもどってから、蚕の種屋を始めた。一帯は養蚕王国。信州に蚕のメスとオスを買い入れ交尾、産卵させる。そして卵(種)を箱詰めにして自転車で入間方面にまで行商して歩いた。幼かった富士さんたちのその頃の楽しみは荒川で川魚をとることだった。渡船場の橋や舟の上から網をおろすとすぐに"マルタ"や"うなぎ"が良くとれた。うなぎは新川の人達は食べない風習があったので、よその人に上げたりしたという。 

タウンタウン熊谷144号「幻の村新川を訪ねて番外篇」より



C 栄華を語る元屋敷の石垣 故・嶋村招允さん

 「話す事は何もないですよ」といいながら、抱えきれないほどの情報を提供してくださった嶋村さんとその姉の大竹恒子さん。 昭和17年に現在の大曲に移転した。嶋村家は宝永・享保年間までさかのぼる。江戸中期の頃には僧職だったこともあるが、祖父・父と3代続く教職一家。現当主招允さんも吹上下忍小学校の校長を最後に引退し、新川に広い農地を持ち、 健康づくりをかねて一人で耕作している。家のまわりには伽羅の木の植え込み、玄関先には大水時用の舟が常備され、少々の出水の時はその舟にのって、背の高い老桑の葉を摘みにいったこと、また昭和の初めのころまでは荒川の川底は もっと深く白い帆船が行き来していたことなど、懐かしそうに話してくれた。昭和12年頃、新川下分の嶋村宅の石垣前で母親と記念撮影。荒川の石は質が良くて珍重された。下分にも石垣職人が何人もいた。

タウンタウン熊谷142号「幻の村新川を訪ねてI」より



D その名もずばり「新川屋」   塚田好弘・よし子さん

 駅前でその名も「新川屋」という酒屋を営む塚田好弘さん・よし子さんご夫婦。 父・故茂雄さんが初代で新川時代に「塩屋んち」といわれた塚田義昭さんの次男にあたる。熊中卒業後深川の酒屋で修業し、船問屋丸岡家から喜代さんを嫁に迎えて、開業したのは昭和の初め。故郷・新川の名を屋号にとどめた。頑固一徹、「人をだますな」が口癖だったという。両親が相次いで亡くなった昭和14年、好弘は店を引き継いだ。以前はいとこ会などもにぎやかだったが、昔のことを知っている人も少なくなかった。新川の共同墓地の墓碑銘の解読などルーツの調査を始めた好弘さん。新川の歴史を残して、家系図などもきちんとできればと思っている。  
 「新川屋」・塚田好弘さんの長姉・矢島登美子さん(鎌倉町の矢島荒物店)は、昭和3年生まれ。駅前から新川まで自転車で45分かけて、よくおつかいに出かけた。船に乗せてもらって魚釣りもしたし、蚕の時期には父親と手伝いに行った。子供の小さな手も貴重な戦力、桑の実ほしさに頑張ったという。昭和20年、8月の熊谷空襲で駅前は全滅、新川に疎開した。小学生の頃、お盆休みに泊まっていた時、大水になって膝まで浸かったことも懐かしい思い出。

タウンタウン熊谷142号「幻の村新川を訪ねてI」より



E 舟問屋400坪の庭で、浪花節や映画会も…
                      丸岡清さん(8代目)章二さん(9代目)


 「新川には回船問屋が5軒あった」という清さん、その中の一軒が丸岡家、舟運業は明治16年高崎線開通まで続いた。清さんが子供の頃迄全長20mの帆掛け舟が荒川に繋がれていたのを覚えている。高利貸しも兼ねた清さんの生家は約2町歩ある大きな屋敷。2階建ての母屋は1階部分だけでも8畳、3部屋、6畳3部屋、別棟に10畳の土間、台所、土手と同じ高さの物置、蚕小屋が並び、常時番頭2人と女中1人がいた。昭和11年に吹上町へ移転。現在も蔵には新川時代の漆塗りの茶碗、盆が40セット、先代憲寿さんの奥様千代さんが嫁入りに持参したお雛様が残っている。

タウンタウン熊谷142号「幻の村新川を訪ねてI 」より



F 30年間新川に暮らした 田口ともさん

 田口ともさんは現在87才。新川で生まれ育ち、昭和17年に大曲に移転する迄の約30年間を新川で過ごした。養蚕農家だった。ともさんが子供の頃の荒川は川幅が40間(132m)もあり、水量も多く、澄んだきれいな川だった。渡し舟、丸太を組んだ荷物船が行き交い、各家の前にある川縁の川だなでは米をとぎ、野菜を洗い随分活気があった。新川の畑で採れた大豆で醤油や味噌を作り、繭があがると糸を紡ぎ、機織りし布団かわから、衣類まで自分の家であつらえた。蚕が暇な冬期になると娘達は久下の小松裁縫所や嶋村さんに通い裁縫を習ったものだ。「紺屋だった上州屋さんがわらじ姿で着物をしょってくるのが楽しみで」と、ともさんは当時織った着物を出して懐かしそうに語ってくれた。 

タウンタウン熊谷141号「幻の村新川を訪ねて H」より



G 「本家ンチ」 今も水瓶は家宝  大島喜代子さん

 "本家ンチ"と呼ばれている。昭和17年に移転、喜代子さんがお嫁にきたのは昭和24年で新川には住んだことはないが新川の屋敷は約750坪、鴨居まで水に浸かった昭和13年の洪水や毎年江南から2人、3人蚕日雇が来た話などはご主人や姑から聞いたことがある。玄関に飾られた大きな備前風の瓶は新川で毎日使っていた水瓶。井戸から水をくんで貯えておいた貯蔵用の瓶で36gの水が入る。今でも我家の家宝でお正月には新しいしめ縄とお飾りを下げて大切にしている。 


写真の木製の桶は大水の時、米や水を入れて2階にあげたものだ。昔は10個ぐらいあったが、現在は4個だけになってしまった。

タウンタウン熊谷141号「幻の村新川を訪ねて H」より



H 土砂に埋もれた祭神を掘り返したことも…  小島稔子さん

 下分の「塩屋ンチ」の塚田家から上分の小島家に嫁いだ稔子さん。大水の後、家の近くの渡し場に通じる墓地の前の祭神を祭った石の灯篭を掘り起こした日のことを今も鮮明に覚えている。石の灯篭は半分以上は土砂の中に埋めていたので、かき出すまでに半日以上かかったという。家にもどってご主人の栄作さんに報告したら「良いことをしたね」と誉められたと懐かしそうに語る。栄作さんは若い頃は村の青年団長をやる活動家。新川村の川原に小型飛行機が墜落した時の目撃者でもある。村の助役を務めたあと、現在の17号のそばに移転し「さかえ幼稚園」を開園した。

タウンタウン熊谷141号「幻の村新川を訪ねて H」より



I かかりつけのお医者さん 人力車で往診   梅澤医院(佐谷田)

 梅澤医院は、江戸時代から代々続くお医者さんの家。初代は忍藩の潘医だった。現在の弘先生は6代目になる。院長先生が子供の頃、祖父の伝兵衛さんや、父親の均さんが人力車に乗って、往診に出掛けていったのを覚えている。均先生は「お髭の先生」と呼ばれ、村人から慕われていた。村一番に買った舶来の自転車、オートバイ、"ダットサン"で、往診に乗って回るハイカラさんだった。 新川の大尽、山岸弥平さん、隆男さんとは懇意で、病院裏手に建つ立派な門構えの自宅は、山岸さんが土手と同じ高さまで盛土し建てた"山岸御殿"とほぼ同じ、床の間の天井板は建て替え前の山岸さん宅の天井板を2等分して使用したものである。

タウンタウン熊谷143号「幻の村新川を訪ねて J」より






J 「法印ンチ」 大島あきさん・清さん

 江戸の頃、上分の入口には120坪の「久山寺」というお寺があった。しかし明治の頃には廃寺となり地名だけが残った。新川上分には「法印ンチ」と呼ばれる大島家がある。江戸の頃から5代にわたる「権大僧都法印」の家柄だった。江戸期でかなりの高位。最後の人は明治に亡くなった幽山という人であった。僧職と同時に三島神社の神官を務めていたという。この家には1m大の木造の不動明王があり今も大切にまつられている。幾度となく大水にさらされた部分がわずかに変色している。玄関の軒先には舟がロープで吊り下げられていて、大水の時はいつでも避難できるようにしてあった。あきさん(86歳)が昭和のはじめ上之からお嫁にきた時の第一印象は「何とさびしいところだろう」と思ったという。

タウンタウン熊谷141号「幻の村新川を訪ねて H」より



K "大水"にまつわる伝説と信仰

 大洪水のたびに堤防は少しずつ、高くなったが、新川村の被害は少しも改善されなかった。大水から村を救う伝説が幾つも生まれ、水難除けを祈る信仰だけが、よりどころだった。そしてそのお祭りは何にもまして優先され、賑やかにそして勇壮に行なわれた。お祭りのことをここでは「とうろう」と呼ぶが、これは祭りの日にロウソクを灯した和紙の灯篭を参道に並べたことによる。
 大水から村を救ったという白蛇様のお祭りは、新川上分の川縁の大店・筏問屋の荒井家ゆかりの行事だった。上分の鎮守・三島神社の境内には、ご神木の大きな欅があったが、毎朝その木からゴボゴボと水を吸い上げる音がした。その音は木の洞に住む『白蛇さま』が水を飲む音だといわれた。荒井家は昭和の始めには当主が亡くなりその大きな屋敷はすでにこの地から姿を消したが、川に続く道の脇には「白蛇さま」の小さな祠だけが残された。上分の人達は荒井家が去った後も、毎年欠かさず灯篭を揚げてお祭りをした。上分のお祭りで勇壮なものは「三島さま」のお祭りであろう。この日は回漕問屋太田家お預けの神輿のような担ぎ棒がある1m四角の木の箱を男衆が担ぎ、掛け声も勇ましく下駄ばきで村中一軒残らず「水難よけ」のお払いして練り歩いた。各家では早朝から畳をあげて一行の到着を待ち、御神体を入れた木箱を盛大にカラカラ揺すり、下駄の音もせわしく、家中のお清めをした。お祭りの一行にはお酒や茶菓が振舞われた。大嶋利雄さん(新川出身)の記憶では9月のお祭りの日は下分の「八幡様」と上分の「三島様」のお祭りが同じ日に行われ天水の河原でもみ合ったという。新川の三島神社は、今はゴルフ練習場ちかくの森にあった。入口には川に向かって大きな石の鳥居があった。その鳥居は現存しているがその半分ちかくを土砂に沈め、鬱蒼の雑草の中にある。


武装した大山祇命とそれを助けたうなぎを描いた絵図

 写真は三嶋神社ゆかりの掛け軸。享保13年の作で現在、栗原行平氏が保管。
 荒川は川魚の宝庫である。水質も良く魚が美味であったところから荒川でとれた魚は高く売れたと古老はいう。なかでもうなぎは栄養価も高く昔から珍重された魚だったが、久下や新川では決してうなぎを口にすることはなかったし、誰も捕らなかった。それは古来からの「大うなぎ伝説」によるものである。また、うなぎは村の鎮守三嶋神社の守り神ともいわれている。

タウンタウン熊谷138号「幻の村新川を訪ねて E」



L 豪邸・油屋んちの押し入り強盗てん末記

 下分で一、二を争う大金持ちといえば「油屋んち」山岸家であろうか。下分そして大里、吹上あたりにはやたらと山岸姓が多いが、この家は「大尽」と呼ばれ別格扱いだった。
(※昔は大臣と書かず「大尽」といった。なんとも嬉しい表現である。)
 観音寺跡の墓地の一画にには今も山岸家だけの墓地がある。江戸の舟運が盛んな頃、「油屋」の山岸家、「塩屋」の塚田家、そして回船問屋の丸岡家はいづれも下分の実力者だった。明治初期頃までは大里側の天水の森側と下分の江川村側の川岸には40から50艘の帆船が舳先を並べていた。川底は今よりかなり深かったという。
 特に「油屋んち」は江戸との交易で財をなし、明治16年鉄道が開通以後は農家へ土地を担保に金を貸す通称"高利貸"、今でいう銀行・金融機関の役目をするようになる。財は財を呼び、昭和の初めの頃には下分中通りにお城のような御殿を建てて話題となった。当時、当主の弥平さんは村長さんだった。
 そんな「大尽んち」には大きな土蔵が2つもあった。その蔵の中のものをねらって10人組の強盗団が押し入ったことがある。家人に食べ物を運ばせ、たらふく食べた上に、めぼしいものを担いで鼻歌まじりに帰っていったのを記憶する人もあった。犯人はしばらくして捕らえられたが、東松山方面の人で顔見知りの人だったいう。終戦直後の話である。山岸大尽んちはその後、平戸に移転。弥平さんの息子の隆男さんは市議会議長として活躍した。

タウンタウン熊谷142号「幻の村新川を訪ねて I」より



M 繁栄を極めた「新川河岸」 40余りの大小の高瀬船、早船も人気。

 江戸時代、伊奈忠治によって新しい河道をながれるようになった熊谷の荒川に大きな港ができた。大里と分断された両岸には常に60石船(150俵900キロ積み)の高瀬船や御用船などたくさんの船が停泊し、水運に関わる大店や倉庫が軒を並べ、通りには荷物搬入のための大八車が往来した。民宿も多く村は活況を呈していた。村の大半は農家であったが上分(下久下)下分(江川)合わせて江戸末期には80戸、明治になって96戸でおよそ500人くらいの人々がここで暮らした。村外からも水運に関わる人々が大勢、働きにきており、旅人を合わせると新川河岸は大変な賑わいであった。
 徳川幕府は元録三年(1690年)に 江戸から熊谷下久下村(新川)の荒川筋に20数箇所もの大小の河岸場を完備した。上流の中山道熊谷宿新川河岸はたに比べて大きな規模で舟着き場として約4アール(400u)が忍藩の管轄であった。明治8年の記録によると荷船40隻余り・60石積20隻、50石積6隻、30石積10隻、5石積10隻。運ぶものは主に米・炭といった農作物などであったが、復路の江戸はらの便は油や塩などの生活必需品を運んだ。途中の港々で荷物の揚げ下ろしをしながら航行するため早くて4、5日長いもので20日もかけて熊谷にもどった。毎月24日には市がたち、熊谷周辺は言うに及ばず鴻巣、東松山、本庄付近からも人が集まった。材木も秩父の山から伐採し筏にして新川まで運び、新川から大筏に組み直しその上に小屋を造って江戸深川まで運んだ。材木問屋は荒井家、岩崎家、米穀回漕問屋は太田家で50石、60石の御用米を運んだ。問屋で最大手は「下の問屋」といわれた丸岡家であった。こうした荷船に対して「早船」と呼ばれたのが客船で翌日には江戸に到着。久下の渡しから乗客が新川の港で早船に乗り継ぎ、江戸に向かった。舟は縦15メートルあまりの高瀬船で木綿帆を張ったり、櫓でこいだりした。「アアー、おせやおせおせ二丁櫓でおせや、おせば千住が近くなる」といった勇ましい船頭歌も歌われた。早船で「お手船」と呼ばれた吉岡家は忍藩の御用船を務める家で、忍藩の定紋を染め出した引き幕に「御用」の高張提灯をたてて航行した。新川下分の江川村の「塩屋」としてその名を知られたのが塚田家。その塚田家の出で、大正2年生まれの小島稔子(旧姓塚田稔子)さんは昔の記憶をたどりながら「下分は大きな問屋がいくつもありました。油屋の山岸家とともに、私の実家である塩問屋の塚田家もそのひとつでした。塚田家で一番栄えたのは曽祖父の頃で、川岸には大きな倉庫があってカマスに入った塩の荷揚げにはたくさんの人夫が集まったと聞いています。港から大八車に積んで50キロ四方に運んでいったと聞きました。でも明治16年の高崎線の開通で船便はあっという間に衰退してしまいました。」という。21才で久下村の収入役・小島栄作さん(さかえ幼稚園前園長)に嫁いだ稔子さんだが、昭和18年新川を離れるまでの思い出を尽きることがなかった。

タウンタウン熊谷136号「幻の村新川を訪ねて A」



N 洪水  耐えつづけた300年

 熊谷・新川村にとって母なる川・荒川は江戸以来、恵みの川ではあったが、常に脅威の川であった。「丑寅の雨雲」秩父方向に流れる雨雲は新川の子供たちでさえ恐れる洪水の予兆であった。



今年の大水の後遺症。新川地内の墓地にもゴミや土砂のおみやげが…

 昭和13年の洪水で決壊した大里側にはえぐりとられた堤防のあとに「切り所沼」が出来た。今ではヘラブナ釣りの人気のスポットだ。
 昭和13年の洪水の後、大里・津田新田の土手に移された「琴平神社」。村を洪水から救ったといういい伝えがある。
 平成11年、今年の8月14日、熊谷地方を襲った豪雨は記録に残る雨量であった。久下橋は文字通り「冠水橋」となり新川の稲や農作物は数十センチもの水をかぶった。こんな現象はこの村にとって年中行事に近かったと新川村の元住民はいう。大水の試練に300年もの長きにわたって耐え続けたのはたぶん日本の中では「新川村」くらいではなかろうか、と語るのは新川村出身の「水道水」の世界的権威・小島貞男博士。それは江戸時代、伊奈忠治の農業治水政策に始まる。堤防は村の後方に築かれ、大水が出ると新川は「水の器」の中に浮かぶ奇妙な光景になった。大水は数年に1回新川を襲った。水博士・小島貞男さんは物心つくころから新川の川べりで水生昆虫と遊び、大学進学のため故郷を出るまで、つねに荒川と運命を共にした「新川人」のひとりであったが、一番記憶に残るのはやはり大水のことだ。雨足がひどくなると大人も子供も雲の流れを一番気にした。丑寅の方向、つまり秩父方面に雨雲が流れると、村をあげて大水対策が始まる。先ず井戸にムシロをかける。日常使う寝具や家具を水屋の2階に引き上げる。飲み水、食料も2階へ。蚕は流す。雨戸を閉め固定させて全員2階へ非難し、梯子を固定させる。水は凄い勢いでひたひたと押し寄せ庭から1階部分に浸水。水屋の2階にこもる人達の中には2階家を持たない近所の人達もいた。大水が長引く時はそこで煮炊きもした。しかし、永年の勘で命の危険は感じなかったという。それは堤防が2階の床がわずかではあるが低いことを知っていたからである。自衛手段で新川のほとんどの家屋は2メートル以上の盛り土や石垣で土地を高くしてそこに「水屋」といわれる2階屋を建てた。この他にも水の勢いを弱めるために高い生け垣や欅、樫、竹林を屋敷森として家の周辺を囲ませた。堤防が切れると新川村を浸していた水は一気に引いた。引くやいなや、全員で梯子を駆け下り、床上の泥をかき出しにかかる。この作業は重労働で床下の泥を運び出す頃は年末といったありさまだった。井戸水を汲み出し「井戸がえ」をし、本来の地下にもどすことも早急時であった。大水のたびにその補修に莫大な出費を覚悟しなければならなかった。特に記録的な災害は近代では明治43年、大正11年、昭和13年、昭和22年のキャサリン台風であった。

‐太田恭一家の新川村の思い出

 新川河岸上分の太田家は回漕問屋として栄えた家柄である。現在、太田家本家の他数軒の分家が久下で活躍を続けている。その中の太田恭一さんは本家回漕問屋から分家して10代目になる。
新川村の様子を伝える貴重なスナップ。昭和初期の太田さんの屋敷。
 太田恭一さんと奥さん。  回漕問屋・太田本家は現在のゴルフ練習場の入口付近にあり、分家の恭一さんのその本家のから400メートルほど離れた川沿いの1、5haの敷地内にあった。隣は岩崎さん、斜め向かいには小島さんの家があった。いづれも水屋を持つ裕福な家だった。太田家も土盛りの上に2階建ての蔵があり、その1階が祖父荘治さん夫婦の居室だった。2階には古文書の類がいっぱいあった。母屋は恭一さん一家。父重雄さんは石原小や南小の校長、恭一さんは桜木小・佐谷田小の校長を歴任する教職一家。家族は農家を営み、新川地内でも有数の養蚕農家であった。恭一さんはたちが先祖伝来の土地・新川村を去り、現在地に移ったのは昭和25年のことだった。恭一さんは6人兄弟の長男であったが、子供の頃の思い出はやはり大水体験だ。「雲行き」を気にし始めると村は急に活気をおびる。大水にそなえての避難の準備はそれこそ時間との勝負。どこの家も子供も大人も必死だ。水が凄い早さで浸水を始めると、水勢で頑丈に閉めた雨戸も簡単に外されて下流に流さたり、子供心で寝ていても背中にまで水がくるのではないかと怖かった。大切なものが流されて弟が水に飛び込んだこともあった。大水の水は夏というのにヒヤリとする冷たさだったという。

タウンタウン熊谷137号「幻の村新川を訪ねて D」より



O 養蚕王国、一面の桑園の中で年5回の収穫

 今は幻・新川村には二度、華やかな時代があった。一度は舟運と、もうひとつは養蚕である。大水の被害に絶えながらも人々は「おかいこさま」がもたらす現金収入によって大きな富を享受した。養蚕は全国的にみても群馬、秩父から埼玉北部にかけて最も盛んな地域だった。当時、生糸は日本のドル箱商品でとくに大正から昭和の5、6年頃までがピークだった。県内でも熊谷は養蚕のメッカで主要な機関はすべて集まっていた。特に久下・新川の繭は質量ともに優れ高い値段で取り引きされていた。


 熊谷の養蚕は幕末に玉井の鯨井勘衛によって始められたという。勘衛はやがて荒川の荒地を開墾して一面桑園とし、国内はもとより海外まで輸出。熊谷は県養蚕の草分けとなった。新川村の養蚕による繁栄ぶりは先人たちが語り継いではいるがそれがいつの頃からは不明である。しかし明治12年の農産生産物状況の記録をみると新川のお蚕事情がある程度わかる。それによると当時、新川村には98世帯475人が暮らしており、舟が50艘、荷車12台あった。繭の生産は久下がダントツで、石原、太井についで新川も多かった。蚕卵紙は石原がトップで川原明戸、久下の順で新川は8番目にランクされている。しかし養蚕の要ともいわれる桑葉の出荷高は新川村の独り舞台。独占ともいえる2500駄を記録している。
 養蚕事情に詳しい中田迪さん(中奈良在住)によると、新川村の養蚕の特微は良質の桑葉だったという。荒川の砂地に生育する桑には蚕のウジバイ「チョウソ」を寄せ付けなかった。新鮮で病気のない桑葉を食べた蚕はそのまま、良質の絹糸になり市場ではかなりの高値で売買された。新川村の繭は県内でもトップクラスだったという。明治16年の高崎線開通で舟運は廃れてしまったが、明治、大正、昭和の初期まで養蚕王国の名をほしいままにした久下・新川村の活況ぶりは今では古老たちの思い出話の中に光輝いている。
 蚕は5月の春蚕にはじまり夏蚕、初秋、晩秋、の年4回が普通だが、桑が豊富にとれる新川では10月に入っての、晩々秋の年5回収穫があった。上分下分もほとんどの農家は養蚕をやりまだ暗い早朝から深夜まで蚕の世話に明け暮れた。現金収入にはなったが、今から考えると気の遠くなるような激務だった。「蚕日雇(かいこびよう)」という季節労働者を雇い、泊りこみで作業した。村の通りには桑の束を抱えて往来する荷車や人であふれた。昭和になって共同作業のシステムや機械化が導入されたが、時代の波はやがて大きく変わり始め養蚕そのものが廃れていくことになるのである。

タウンタウン熊谷139号「幻の村・新川をたずねて F」より



P おかいこ繁盛記 蚕影山神社から鶴の羽はけを贈られた山岸家 新川村の人々(下分)

 新川村の下分は、昔の江川村である。通称川端とよばれる一画は、昔の船着場で、ここには昔の廻船問屋丸岡家ゆかりの家や、繭種屋、雑貨商、農家など17軒ほどの家があった。そこに養蚕農家・山岸三千之助宅もあった。久下、新川地内で最も盛んな養蚕農家である。蚕が始まる5月から晩秋まで使用人ともども家中で養蚕に追われた。屋敷内には二階だての母屋2軒、蚕小屋、離れ、裏には鬱蒼の竹山があった。
 山岸家には今も家宝として伝わる鶴の羽はけがある。これには民話のような話が伝わっている。時は大正の頃、黒装束の人が小さな包みを持って熊谷駅に降り立った。その人は茨城の蚕影山神社に仕える人で先頃、神主の夢枕に蚕影山の神が立ち「鶴の羽はけ」を熊谷・新川村の山岸三千之助に届けるようにいったという。以来、この家では蚕を掃きたてる時はこの羽を使い、たくさんの良い繭を作ったという。蚕影山神社は現在も筑波市に存在し、古くより養蚕の神として長野の諏訪から岩手一帯まで広く養蚕農家から信仰を集めた神社である。山岸三千之助さん亡き後、妻ていさんは8人の孫たちと力をあわせ養蚕を続けた。そして祖母亡き後、次女の峯さんを中心に姉妹たちは戦前戦後の大変な時代を力をあわせて家を守った。昭和10年には川端から保全寺の横に住いを移し、さらに昭和17年現在地の大曲に移っても妹の故・照子さんは70才になってもコンバインで畑に出る元気ものだったという。

タウンタウン熊谷139号「幻の村・新川をたずねて F」より



Q 荒川でも鵜づかい

 「鵜飼い漁」は今では岐阜、長良川が有名だが、昭和も戦後しばらくの間、荒川の中流では『鵜づかい』が活躍していた。江戸時代、渡辺崋山の「訪?録」や天保年間に著された「増補忍名所絵図」などにも当時、荒川で鵜飼い漁が盛んに行われていた様子が描かれている。新川村にも名人といわれる鵜づかいが存在していたのだ。   

‐夏は鮎、冬は寒鮒。江戸の頃から盛ん 鵜飼い漁

 新川上分の長島家は江戸の頃から、代々『鵜づかい』を生業とし、荒川中流域の元締め的存在であった。武平、政太郎と続いた名人一家であったが、政太郎さんの息子、清一、忠三(現在、蓮沼忠三さん久下自治会長)兄弟も幼い頃からこの鵜づかい漁をし込まれて育った。保全寺の数件手前、通称「本村」のメイン通りに草葺屋根の長島本宅があった。川通りの別宅はいわば鵜づかいのための作業所で、目の前の川には鵜づかいのための舟があった。家の中には最盛期で20羽あまりの鵜が飼われていたが、漁が終わると優秀な数羽を残して岐阜長良川に売られて、翌年又新しく買い入れて漁をしこんだ。
 昔は羽田ちかくの川鵜を使い、後年は茨城の高萩から野生の海鵜を買った。武平さん亡き後、政太郎一家は力を合わせて鵜飼い漁に励んだ。いつも3人で自転車の荷台に鵜を4羽づつ積みこんで遠くは上尾、桶川、鴻巣、ちかくは熊谷周辺で漁をした。漁場には常に長島家の鵜舟が預けてあり、舟と網を使い鵜を真中にして魚を追い込む方法がとられた。しかしどんな漁でもお昼の1時になると鵜たちはピタリと漁をやめた。長島家の鵜の食事タイムが1時であったからだ。60キロ程の魚がとれると鴻巣の仲買人に魚を売って新川にもどるというのが日常だった。鵜漁は冬場は寒鮒、夏は鮎と決まっていた。特に鮎は高価な値で売買され、かなりの収入があった。荒川流域は雑魚を除いても22科、65種の魚が生息し中でも久下、新川、吹上あたりまでは鮎のメッカといわれる。そして大食いの鵜をつかっての鮎漁はいつも大漁だった。それだけに鵜づかいへの風あたりは大きく、鵜をつかっての漁は禁止すべきだとの声が高まり、ついには昭和24年頃県の条例で鵜づかいは廃止となってしまった。
 熊谷の上空を朝夕編隊を組んで漁に出かける川鵜たちの姿は現在も日常のように見ることができる。  蓮沼忠三さんは長島政太郎さんの三男で、若い頃は数少ない鵜づかいだった。

タウンタウン熊谷140号「幻の村新川を訪ねてG 」より



R 小舟にのって御用聞き 斉藤商店 (津田新田) 斉藤茂吉さん

 対岸の大里村・津田新田に古くからある「斉藤商店」。「近店」(ちかだな)と呼び親しまれた。

 昔から上分下久下村、下分江川村の人々は米・酒・雑貨を商うこの店をライフラインとしてきた。今尚昔ながらの大看板が店内に掲げられている。74才になる斉藤茂吉さんも子どもの頃、番頭さんたちに連れられて、または一人で小舟にのって新川に御用聞きや、配達に行ったと証言する。新川は養蚕が盛んであったため米をつくる農家がなかったので米の配達も多かった。昭和13年の台風で津田新田側が決壊したときは斉藤商店の米倉も被害甚大だった。また村の祭り「おしっさま」は新川、吹上を経由して騎西の玉敷神社から御神体を迎えて賑やかなお祭りを行った。新川からも大勢の見物客がきたという。

‐大水で深く関わった対岸大里村

 江戸になって新しい川(現在の本流)が掘り込まれると大里と熊谷は大水の決壊で常に騒動や紛争が絶えなかった。新川村と津田新田、吉見村の子どもたちはわづかな距離の川をはさんで石を投げては喧嘩した。 大人のように銃口を向けて発砲するような恨みつらみの確執ではなく、縄張り意識のようなもので、子ども同士は喧嘩もしたがあっけらかんとしていた。江戸期、明治・大正にも記録的な台風が何度もやってきたが熊谷より土手が幾分低いためか、大里側に決壊することが多かった。そのたびに土手は少しずつ高くなった。近年の大洪水は昭和13年で市田村が決壊。その日の新聞には大見出しで『生色なし呪われた県北』と水地獄の様を伝えている。この時の犠牲者は72名を記録している。胄山の旧家、根岸家では米を毎日二・三俵炊き出し被害者にふるまったという。

タウンタウン熊谷143号「幻の村新川を訪ねて J」より



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