元住人たちの証言
大水の思い出
太田 恭一(久下)

荒川上流に大雨が降ると新川は水の器になる。左岸右岸どちらかの堤防が切れると水はぐんぐん引いていく。大水との闘いは300年以上も続いたのだ。

私は新川に生まれ昭和25年の20歳迄新川で育ちました。毎年二百十日が近づくと、子供心にも「今年は、あらしが来なければいいが」と心配しておりました。畑が冠水する程度の大水でしたら一年おきぐらいにやってきました。特に昭和13年と22年の大洪水のことは今でも、はっきりと覚えています。大水になる時は丑寅から強い風が吹きまくり、黒く低い雲が、ぐんぐんと秩父の方へ飛んでいきます。そんな日は朝から家中大忙しです。家財道具全部を二階に上げなくてはなりません。
 飲み水も大釜にいっぱいになる迄バケツで何回も運び上げます。畳も全部はがして二階へ上げます。その合間に子供たちは河原まで増水の様子を見に行き家人に知らせます。暗くなりかけた頃、家の西側から縁の下を潜った水が台所に入ってきました。そのうちの四方八方から流れ込んできます。台所で水に浮かんだ下駄が、くるくる回りはじめました。水は刻一刻と増え、上框から座敷の上へと水位を増していきます。水が座敷に上がりかけた頃「助けてください」と裏口の戸をたたく音が聞こえました。裏の家の家族が大きな風呂敷包みを背負って飛びこんできました。すぐに二階に上げました。二階の床板迄水が届きそうになってきた時は、寝る所がなくなってしまうのではないかと気が気ではありませんでした。
 今から思えば大変不謹慎な話ですが「どうか神様、前の土手でも後ろの土手でも、どちでもら結構ですから、早く土手がきれますように」と祈っている声が聞こえてきたのを覚えています。夜中の二時頃、ゴーという音が聞こえました。土手が切れたのです。みるみる水が引けていきます。思わず「助かった」と大声で口々に叫びました。
 そんな思いをした新川でも、住めば都で、離れたくはありませんでしたが、国の命令で泣く泣く現在の地に移転致しました。

写真は新川上分の太田家。
庭の奥には土盛りした2階建ての水屋。恭一さんもその父の重雄さんも地元小学校の校長を務めた教職一家。新川を去ったのは昭和25年のことだ。現在はもと屋敷跡を開墾し農業三昧の日々。新川に残る数少ない写真。


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