元住人たちの証言
荒川最後の鵜使い
蓮沼 忠三(久下)

 昭和49年12月22日、荒川沿いの新川村にたった一人で住んでいた父政太郎が永眠した。戦後の荒川で、最後まで鵜を使って川魚漁をしていた鵜使いだった。
 私は昭和25年国鉄に入るまで、その父について鵜使いをしていた、生存している鵜使いではおそらく私が荒川では最後だと思う。私の家では、冬場の寒鮒漁には15羽位の鵜を飼っていたが大部分が海鵜で六羽が川鵜であった。冬の寒鮒漁が終わる三月末には総ての海鵜は岐阜県長良川へ送ってしまう。海鵜は荒川の鮎漁には使えない。荒川の急流での網を引いて鮎を獲るは川鵜でなくてはスバヤイ動きはできない。次の年は新しい海鵜を買ってきて馴らして使う。

川鵜は海鵜の先生

 海鵜は茨城県日立市高萩方面の海で捕獲していた。そこへ行って、品定めをして買ってくる。海鵜は先祖代々の許可事業で許可書を持った人が海の断崖絶壁にはりつくようにして捕獲する。トヤと言う場所(絶壁に渡ってきた鵜が休む場所を作り、剥製のオトリを置いてつかまえるが、これは命がけの仕事だ。)。捕ったばかりの鵜は気が荒い、魚をとるあの鋭い嘴でやられたら手に穴があいてしまう、鵜にはすぐに嘴に木片を噛ませてしばり、眼は木綿糸で縫ってしまう。そのまま列車で家まで持ち帰り、紐をつけ、人の出入りする入口の人が届かない距離につないで置く。人が通る度に鳴き、飛び掛ってくるが、一週間もすれば鳴きわめいても無理だと判る。それから川へもって行き、紐でつないだまま先輩の川鵜の漁を一週間程見せた後、魚を獲れる位の体調に仕上げる。約一ヶ月で放して魚を獲るくらいの一人前の鵜になる。それは数年飼っている川鵜の先輩鵜を見習って訓練する。馴らしてから使うので、十月から十一月に仕入れないと寒鮒漁に間に合わない。私の家では、常時六羽程の川鵜を一つの小屋に放して飼っていた。川鵜は長命で私の子供の頃の川鵜が全部生きていたが、何年経っても玉子は産まない、牝雄は父親にも判らなかった、そのために子を育て、飼いならすことはできなかった。川鵜は柔順だが人見知りが激しく、父でなければ捕まらない鳥もいた。鵜一羽は非常に高価だったが冬場三ヵ月一羽の寒鮒漁の稼ぎは大変良かった。渡辺崋山の著にも「鵜飼いは一羽で一冬に十金稼ぐ、二羽以上飼う者は農作業を怠った」とある。
 厳寒の真冬一月、朝五時襟巻きで顔をつつみ眼だけ出して自転車で家を出る。あたりは真っ暗だ。自転車で出かけるのは三人。父と兄、そして私の三人の荷台には大きなカゴがつけてあって、一人が四羽づつの鵜を持つている、砂利道の十七号を一生懸命こいで一時間、まもなく鴻巣だ大分明るくなって来た。ようやく身体も温かくなって来た。今日の漁場・上尾近くの荒川につく。民家に預けてある持ち舟に積んで五分も行けば荒川でも深い場所に着くのが十時だ。カゴから出した鵜に首輪を付け、川へ放す紐はつけずに放す。川鵜が六羽、海鵜六羽海鵜は川鵜より一回り大きいので獲る魚も大きい。川鵜は動きが敏捷だ。性質も良い十二羽の鵜を使って約二時間、十二時半になるとどんなに魚がいても潜らない。それは獲らなくても貰って食べられる時間が来たからだ。その時間になると川の方は見ないで人の手元だけ見ている。矢張りこれも訓練の結果で仕方がない。特に川鵜は長く飼っている内に気心の知れた相棒といった感じだった。帰りの道々、取引先の魚屋で魚を売って帰るからのが日課だった。
  今、毎日のように荒川を飛来する何百という川鵜軍団を見るたび、昔の川鵜との違いにちょっとした脅威を感じている。


Copyright © 立正大学/地球環境科学部/環境システム学科/環境管理情報コース/後藤研究室 all rights reserved.
当ホームページは、平成18年度財団法人地域総合整備財団および熊谷市役所の補助により作成され、立正大学/地球環境科学部/後藤研究室および NPO法人GISパートナーシップによって運営されています。
当ホームページ内に掲載の写真・音声・CG及び記事の無断転載を禁じます。