元住人たちの証言
大嶋せきさん(上分)
大嶋せきさん明治41年生まれ

 上分の大嶋熊五郎さんに嫁入りした「せきさん」。熊五郎さんは筏のりの息子で昭和のはじめ熊五郎さんは住友銀行日本橋支店に勤務していた。せきさんとは東京で知り合い、同じ埼玉出身ということで親しくなり結婚。せきさんは20才、昭和3年頃の話である。家の間取りは8畳2間、6畳2間に離れは3.5畳ほどで、当時は駄菓子やだった。2階は3畳ほどで大水用の避難部屋だった。熊五郎さんの母が駄菓子屋をやり、熊五郎さんは行田の足袋の景気がよくなり住友銀行は熊谷本町の現在、アルザンの2階に支店のようなものをつくった。熊五郎さんは行田からの集金を集めて日本橋店に運ぶのが仕事だった。
 その頃のせきさんの楽しみといえば下分の河川場まで行き帆掛け舟に乗せてもらうことだった。下流からゆらゆらと帆を張って上ってくる舟には1人から2人お客が乗っていた。船頭に茶菓子を差し入れ、少しお金を包んで30分から40分舟に乗せてもらった。家を出る時の名目は川に洗濯に行くといって出た。その頃は昭和の10年以前で舟運は廃れ筏もなく、帆掛け舟は観光の飾り物のようなものだった。

  熊五郎の父・民五郎は元忍藩の武士の家と聞いている。裃や太刀といったものがしまってあったが、いつのころか、大水に流されてなくなっていたようだ。民五郎は武士をやめてからは筏乗りになって江戸を往復するのが仕事だった。

 せきさんの新川の思い出は大水に関するものが多い。丑寅秩父山地の空模様が悪くなると、上分は水番の人が触れて歩いた。下分との境の保全寺には物見台があり、半鐘もあった。急な増水などの時にはけたたましく鐘が鳴らされた。女たちは腰に綱を巻き鎌を差し込んで避難作業をした。先ずは大きな5つの水がめに汲み飲み水を確保。大切なものを2階に引き上げた。濁流に流されないように体をロープでしばり、大きな木の柱に結わえた。鎌で柱や木に刃をつきたてることもあった。舟を下ろし大水が2階も浸水すると隣の太田本家に2階に避難した。記憶の中でひどい大水は昭和11年の台風で2階に非難していたが、いつまでも水が引かず、ついつい居眠りをしていたら、背中が冷たくなり慌てて家族もたたき起こし、舟を引き寄せ全員で隣の太田家に避難した。その時はたしか大里側が決壊し、翌朝になってやっと水がひいたという。しかし例年の大水は自宅の2階で避難する程度に収まったいた。

 大水の後のどこの家もドロだらけ。隙間という隙間はドロ砂の羊羹のようになっていた。大水のひどい時は年末までかかって掃除をしたものだった。

 下分の山岸弥平さん宅は「大尽んち」と呼ばれ、お城のように高い石垣の上に屋敷があったので、どんな大水も高見みの見物。そんなところから村びとは山岸大尽んちを「弥平河岸」と呼んでいた。

 上分の人たちは自然と助け合いの心があって大水前には家の竹やぶから竹をを切ってきて自分たちで蛇かごをいくつも作っていた。そして大水の季節になると上分の渡しまで下りていって2メートルちかい蛇かごに小石を詰め込んで河原の護岸用においていた。何軒もの家が作ったので河原は蛇かごでいっぱいになったこともある。

 せきさんが「おとかっぴ」を見たのは仕事を終えた夜10時頃という。窓から種やんちの墓場あたりから下分にかけて「おとかっぴ」の行列をよく見た。ちょうちんを持った白装束の花嫁行列で鵜使いんちの方に風のようにゆらぎながら進んでいき、人の視線を感じるとその行列はふっと消えたという。特に春から夏にかけてよく見たと話す。

 昭和20年、せきさん一家は新川を出て久下新田に移転した。


Copyright © 立正大学/地球環境科学部/環境システム学科/環境管理情報コース/後藤研究室 all rights reserved.
当ホームページは、平成18年度財団法人地域総合整備財団および熊谷市役所の補助により作成され、立正大学/地球環境科学部/後藤研究室および NPO法人GISパートナーシップによって運営されています。
当ホームページ内に掲載の写真・音声・CG及び記事の無断転載を禁じます。