荒川開削以後

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久下橋のある土手一帯の地名を「古城」(ふるしろ)という、千年以上も昔、久下・熊谷氏の頃にはここには多くの人が住み文化があった。今も地元に伝わる「久下鍛冶」は、当時の領主・久下直光が鎌倉より連れ帰り、弓などの武具をつくら せたという匠の一族である。久下氏が兵庫に移ってからもこの地にとどまり忍城や農機具の製作を手がけてきた。
  江戸以前、久下は荒川扇状地の末端に位置し、大雨のたびに何度も流路を変えたが、その中で一番一定していたのが元荒川だった。この元荒川を久下で堰きとめ、久下から近くを流れる和田吉野川に向けて新しい流れを開削したのが有名な「荒川の瀬替え」である。(図参照)
  新・荒川の誕生「荒川の瀬替え」は久下の実質の夜明けといって良いかもしれない。寛永6年(1629年)関東郡代・伊奈忠治が4年の歳月をかけて陣頭指揮で荒川流路をあらたに開削し、元荒川と切り離し、南を流れる和田吉野川と結び、今にみる荒川の流れにした。江戸を洪水から守り、関東平野を荒れた沼地から、豊かな穀倉地と替えた国家的プロゼクトの実施である。その中心人物が関東郡代・伊奈一族。徳川家康が最も信頼し、検地から治水、江戸城大改築、御殿・神社造営までをまかせた伊奈忠次から始まる。伊奈流と呼ばれる土木技術で関東の繁栄の基をつくりあげた。荒川・利根川を中心にした大がかりな治水工事など、その功績の割りに伊奈一族の存在が一般に知られていないのは、伊奈一族が常に農民から「神」のように敬われ親しまれたためといわれて いる。

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