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絵馬の願主は武州末野村の芝崎鉄五郎、
世話人として(新井村辰五郎、久下村栄吉、
歳次郎、武州馬室村梅吉、江川村幸助、
江川村小島村氏、野州ヒヤ村貞次郎、中
瀬村庫吉、江川村利三郎、江川下久下村
九八朗、小八ッ林村権三郎、玉作村睦朗、
久下村善次郎、小泉村辰五郎、総州行徳
村秋吉、江川村弥四郎、井草村弥十郎、
江川上久下村徳次郎、下久下村中次郎、
伊勢島村伊太郎、久下村渡辺助とある。


舟運の後は機械船で砂利採掘
  
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荒川・久下、新川周辺には建築用に適し
た良質の砂利が多く、東京の都心のビル
建築などに多く使われた。写真のような
機械船で砂利を採掘し貨物列車で輸送さ
れた。江戸時代は秩父の木材が、明治以
降はビル建築にと、荒川の新川周辺は首
都建設に大きく貢献した。写真は昭和初
期の新川河岸。機械船の背景には新川
下分の家並みが見える。当時はまだ舟運
の名残りがあったようだ。

   
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        瀬替えで舟運栄える
  新川・江川村は伊奈備前守忠治の瀬替えよって生れた村里である。瀬替えは江戸を洪水から守り、穀倉地帯の開発させただけではなかった。江戸から久下までの「舟運」による経済効果も大きかった。
  浅草から千住、川口、大宮・平方をへて桶川・北本・鴻巣そして吹上の」五反田河岸、大芦。対岸の八代、小八つ林、玉作造をへて新川・天水、新川・下久下の22数箇所の河岸。下久下から浅草まで河道約100`、雑貨などの荷物便は15〜20日かけて運んだ。新川河岸から江戸へは米や炭、絹織物などを運び、途中の河岸で農産物を積み込み江戸へ。江戸からは塩や日用雑貨などを積んでもどってきた。大滝村や秩父の山林から木材を伐採してイカダを新川まで流し、新川でイカダ舟に作り変えて江戸まで輸送。江戸の家造りは秩父の木材が多く使われた。
  新川には筏を商う大手の岩崎・荒井といった回船問屋があった。筏職人や専門の宿が繁盛した。年貢米の運送は上分では太田家、雑貨を含めて下分の丸岡家、塩は塚田家が大きく商いをしていた。中でもは「お手船んち」と呼ばれる吉岡家は、忍藩専用御用提灯を高く掲げ一斉風靡した。天水の河岸には50石60石の御用船が何艘も停泊していた。陸揚げされた塩や雑貨などは中山道を通って近在、遠くは本庄あたりまで運ばれ売買された。



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