養蚕で栄える

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   江戸時代、新しい川路になった下久下・
江川地域の住民は川沿いに集落を作り暮ら
した。以来、大雨による大水の被害と、大
水が運ぶ滋味豊かな土砂による豊かな収穫
という恵みを受けながら暮らしていくこと
になる。特に明治16年以降、鉄道開通で舟
運が廃れてからは養蚕を中心にこの村落は
再びスポットをあびる。
    「河川敷に桑園を」というのは江戸の終
わり頃、玉井の鯨井堪衛の提唱による。洪
水のたびの新しい土砂が桑の葉に害虫を寄
せ付けないということもあって、荒川河川
敷は一面青々とした桑園が広がった。
   明治12年農産物事情の記録によれば、繭
の生産は久下地区が断然トップ、石原・太
井についで新川も多かった。しかし蚕が食
べる桑葉の生産高は新川村が一人舞台。独
占ともいえる2500駄を記録している。新川
で成長した桑葉はどの地区よりも新鮮で、
それを食べた蚕はそのまま良質な繭となる
とあって高値で取引されたという。5月の
春蚕に始まり夏蚕、初秋、晩秋と年4回が
普通だが、桑が豊富な新川では10月の晩々
秋も入れて年5回も収穫する養蚕農家もあ
った。「蚕日雇」(かいこびよう)と呼ば


れる養蚕時期だけの臨時雇いで新川の夏は 普段の倍ちかくの人口で膨れ上がった。労 働は待ったなしで早朝から深夜まで蚕小屋 と桑畑を往復。大雨で道路や家が浸水して も舟をこぎだし桑葉をもぎに出かけたとい う。蚕は「お蚕さま」と呼ばれ、天敵のネ ズミを食べる蛇は「白蛇さま」と尊ばれ、 お祭りも盛んに行なわれた。三島神社、九 頭竜様、八幡さまなど、この村には養蚕の 神、水神などが共存しての信仰深い暮らし ぶりであった。
 昭和になって共同作業所なども設置され たが、やがて絹糸はナイロン繊維に取って 代わられやがて養蚕王国にもかげりがみら れるようになる。
新川の人々はともかく良く働いた。そし てその財力を子供達の教育に惜しみなくあ てる家も多かった。新川の上分下分を問わ ずこの村には教職につき、指導者として活 躍する人が目立つ。自然の厳しさ、舟運・ 養蚕の栄枯盛衰のはかなさを身でもって感 じてきた人々が子供らの教育に夢をつなげ て働いたことだろう。
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          合併につぐ合併そして消去

   明治9年の「新川村村史」という手 書きの小冊子が岩崎達雄宅にある。新 川村のシンボル三島神社の埋もれた鳥 居を守り続ける旧家岩崎家の先祖久右 エ門作である。当時の村の人口や状況 を知る上で貴重である。新川村は明治 7年(1874年)下久下村と江川村が合 併し新川村に。明治22年には久下村と 合併し、大里郡久下村に、そして昭和 16年に熊谷に編入されている。


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